太平洋戦争中の音楽事情(2)*1

 (昨日の続き)
 昨日は戦時下の宣伝媒体としての音楽雑誌について触れたが、今日は戦時下も今も変わらない音楽事情について述べたい。戦争中の「音楽之友」でも当時の第一線の音楽家が芸術的な問題について率直な意見を述べている。その中でも「日本指揮者の座談会」(昭和十七年十一月号)は山田和男(のち一雄)、尾高尚忠、山本直忠、菅原明朗らの本音トーク全開で今読んでも楽しい。例えば

坂本良隆: ドイツ人は、よくベートーヴェンはわれわれでなければわからないと言う。
菅原明朗: 反対にイタリアのある指揮者は、ベートーヴェン交響曲の一番わからないのはドイツだ。伝統などいろいろあって、指揮者個人の考えがドイツにはないというのだ。

この一節からはベートーヴェン演奏についての普遍的な問題が伺える。こんなやりとりは今でもドイツのどこかで、管弦楽団員とイタリア人(またはイギリス人の)指揮者の間で交わされているような気がする(笑)。また彼らは欧米の最先端のトレーニングや音楽院やコンクールなどの指揮者養成教育に多大な関心を示していて、そこから苦しい状況でも演奏水準を高めようとする意欲を感じる。
 ただ彼らは日本人作品の演奏については「日本人のものはやりたいと思うが、事実はやりりたくない」(山田和男)、「やりたくない曲が生まれないようにしなければならないと思う」(菅原明朗)と消極的だったようだ。この辺は戦後日本人作曲家たちが蘇演されるまでに長い年月を要したことと関係があるかもしれない。
 オペラについては藤原歌劇団が孤軍奮闘していたようである。「トスカ」「ファウスト」「ローエングリン」と戦時下に関わらず果敢に上演を重ね、しかも鑑賞に堪えうる舞台を行うことができたのにはドイツ出身の指揮者グルリットの力量が大きかったようだ。
 また当時の呼び方でいう処の「内地」だけでなく、日本軍の占領地での音楽事情を紹介した記事も興味深い。「音楽之友」ではフィリピン(「フィリッピン音楽私考」:昭和十八年四月号)とベトナム(「南の空に歌ふ(三) ― 南方音楽随想」:昭和十八年五月号)の音楽史を簡単ではあるが紹介している。前者はインドネシア、マレー、日本、中国らの周辺諸国の影響、スペイン統治によるキリスト教やラテン文化の流入アメリカ統治による影響など、多彩な音楽文化の混在しているフィリピンの状況に触れている。またベトナムでは当時ティノ・ロッシのファンが多かった、とある。ベトナムで蓄音機から流れるシャンソン。想像するだけでも楽しいではないか。(この項続く)